うつ病、パニック障害で揺らがない心にするために
今回、以下に紹介する方法は、うつ病、パニック障害を克服した体験からすれば最も重要なポイントになります。
もしこの方法を理解し、取り入れることができれば、克服に向けた土台ができたと言っても過言ではないと思っています。何が最も重要なのかと言えば、この土台をつくるという点にあります。
このサイトでは、呼吸法など技術的な方法も紹介しています。これらの方法を繰り返すことによって、症状を抑えてなくすことはできます。(呼吸法の記事はこちらになります。)
症状を抑えた状態を継続することで、やがて病気が消えていくこともあるかもしれません。しかし一方で、心のあり方によっては、症状に大きく振り回されたり、病気の状態に戻ろうとする力が働いてしまうことがあります。それではこの病気を根本から消すことにつながりません。
このため、まずはこの揺らぐことのない心の土台をつくることが最も重要と思っており、この記事を最初に紹介しています。
別の言い方をすれば、病気を維持してしまう心のあり方を取り除くことが、根本的な克服につながる。自らの体験によって、そのように確信しています。
この病気を克服してから20年以上経ちますが、再発せず、揺り戻すこともありませんでした。病気のときにあった数々の症状(→病気だったときの症状【閲覧注意】)は、克服したときにすべて無くなっています。
それはこれから紹介する方法が土台となっているものと確信しています。
難しい方法なのかと言えば、そんなことはありません。
方法の原理はシンプルだと思います。
しかし最も重要な内容でありながら、人によっては抵抗を感じることが予想され、実はお話しするのが最も難しい内容でもあります。
それはいわゆる「一般的な認識」とは異なる部分があるためです。中には宗教なのではないかと疑問を持つ方もおられるかもしれません。
しかしこの記事は、うつ病、パニック障害を克服することが目的であり、そのための「心の技術」を紹介することを目的としています。当然ですが宗教の勧誘、宣伝ではありませんし、経済的な負担もありません。
誤解を招く可能性を恐れず、自らの体験をもとに得た方法をありのままお話ししていきたいと思います。
また、この方法がなぜ病気を克服するに至ったのか、思うところについても簡単にまとめてお話ししています。
それでは以下、参考にしていただければ幸いです。
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うつ病、パニック障害で揺らがない心にするために
うつ病、パニック障害のときには、心や体の様々な症状に振り回され、悩まされ続けました。とても苦しい状態だったことを現在でも憶えています。
そのような状態を完全に脱することとなった、揺らぐことのない心の土台をつくるという方法とは、どのようなものでしょうか。
それは、以下のポイントを意識するというものです。なお繰り返しますが、宗教の勧誘や宣伝ではありません。
自らの「本質」が、完全な存在、不変不壊の存在、清浄な存在であると認識する
そして、これら自らの「本質」に意識を置く
先ほどお話ししたように、この病気のときには、心や体に様々な症状が現れます。そして、好む好まざるとに関わらず、意識が常に症状に向いてしまいがちです。
しかし、心や体の症状などの「現象」に意識を向けるのではなく、上記自分という存在の「本質」に意識を置くようにする。そのような方法です。
そして、心や体に生じている症状などはあくまで「現象」であり、自分という存在の「本質」には何ら影響を及ぼさないということです。
上記のポイントは、病気を克服する過程で意識していたものをまとめたものです。これら自分の「本質」に対する認識は、その後現在に至るまで変わっていません。
そして、病気がすべて消えて20年以上再発せずに来られたのは、この認識が自分の心、自分の存在の揺らぐことのない土台となったためと確信しています。また、今後も再発しないものと確信しています。病気を克服する前と比べて、心のあり方がまったく異なることが自覚できるからです。
さて、上記のポイントでは端的な言葉で挙げさせていただきました。内容はある程度想像できるのではないかと思いますが、以下補足のお話しをすることにします。その後、「意識を置く」とはどのようなことなのかお話ししたいと思います。
自らの「本質」
上記のポイントでお話しした、意識する自らの「本質」について、以下に詳しくお話しします。
【完全な存在】
自らの「本質」は、元々完全な存在と意識する。
自分という存在は、本質として完全であって、欠落したところがあるものではない。補ったり変えたりする必要がある存在というものではない。
【不変不壊の存在】
自らの「本質」は、変化したり壊れたりしない存在と意識する。
自分という存在の本質は、微塵も傷ついたり壊れたりすることはない。例えば、心が影響を受けたり、体が病気したり老化したりしても、自分の本質はまったく変化しない。精神的、物理的な影響を本質は受けるものではない。
【清浄な存在】
自らの「本質」は、汚れることなく常に清浄な存在と意識する。
心の否定的な想念や環境、出来事などで汚れたように感じても、それは表面的に覆われただけのものであり、自分の本質が清浄であることに変わりはない。
簡単にまとめて言えば、自分という存在の「本質」は、いついかなるときも完全であり、傷ついたり壊れたりするものでなく、汚れなく清浄であって光り輝くものであるということです。
これらの自分の「本質」は、うつ病、パニック障害になる以前から、病気のときにも、そして病気を克服した後も変わることはありません。「本質」はそれらの「現象」には影響を受けないものです。
これら自らの「本質」を認識し意識を置くことが、揺らぐことのない心の土台となります。
「現象」と「本質」
自らを苦しめる心や体の症状が、自分に多大な影響、変化をもたらすもので、自分という存在を侵食しているように感じたことがありました。しかしそれらは、既にお話ししたように、自分という存在の「本質」には何らの影響を与えません。
この点について、以下に例え話になりますが、補足してみたいと思います。
光輝く金の玉を泥の中に落としたならば、表面に泥がついてしまいます。場合によっては泥に覆われてしまって、泥の玉のように見えることもあります。
しかしそれは、表面上そのように見えるだけのことで、金の玉が変化してしまったわけではありません。泥の玉に変化したと認識するのは、誤りです。
金の玉が泥の玉になることはないのですが、それを知らなければ、泥の玉になってしまったと慌てることになります。このとき、心は大きく振幅します。
一方で、このことを知っていれば、泥がすぐに落ちなくとも慌てることはありません。洗うなどすれば、泥はやがて落ちていきます。心が大きく振幅することはありません。
もし知らずに泥の玉だと認識してしまった場合、泥がやがて落ちていくという認識がないかもしれません。そして、泥の玉を前提とした心になってしまい、それが原因で金の玉に戻りにくくなってしまうかもしれません。
ここでは、金の玉が自分という存在の「本質」、泥が症状などの「現象」です。
この認識を持つことで、症状などの「現象」によって影響を受けていた心が、大きく振幅しなくなりました。自分という存在の「本質」に碇を降ろすことで、それまで「現象」によってどこまでも流されていた自分の心と存在が、流されなくなりました。
症状はすぐに忽然と消滅したわけではありません。しかし、意識が症状にとらわれることがなくなっていき、気がついたときにはすべて無くなっていました。症状という「現象」が、自分に重大な変化をもたらすという意識によって心が大きく振幅し、その存在を際立たせていたのだと思います。
泥は泥に過ぎず、金の玉を変化させることはないのです。そしてこのことが、揺らぐことのない心の土台になったということです。
意識を置く
これまで自らの「本質」の内容についてお話ししてきました。次に「意識を置く」とはどのようなことなのかお話ししたいと思います。
巷間では「イメージする」、「自分に言い聞かせる」という表現をよく聞きます。
ご覧の方にとっても、これらはすぐにお分かりになるのではないでしょうか。「イメージする」とは、簡単に言えば心に想い描く作業、「自分に言い聞かせる」とは、文字どおりの心の作業であることを、ご自分の経験から理解できるのではないかと思います。
先ほどの「意識を置く」ということが、それらに当たるのかと言えば、そうではありません。では、どのようなものなのか。それらと対比する形で、以下、お話ししていきたいと思います。
【イメージする】との差異
心のイメージが実現する、といった表現をよく耳にすることがあります。この場合の「イメージする」というのは、先ほどお話ししたように、心に想い描くということです。心に想い描いたことが、現実になったという意味になります。
しかし、自らの「本質」を心の想念で創り上げる必要はありません。まったく別に存在するものです。
「イメージする」ということは、心の想念で創り上げる、というニュアンスが入ります。つまり、何が言いたいかと言えば、心が「虚偽性」を無意識に感じてしまうということです。この方法は、自らの「本質」を心で想い描くだけのものではないということです。
【自分に言い聞かせる】との差異
「自分に言い聞かせる」というのは、心の中で、繰り返し言葉で自分を説得する作業です。不安に陥った自分を落ち着かせるため、よく行った心の作業です。
しかし「自分に言い聞かせる」ということは、言い聞かせている内容と自分が異なる状態にある、ということを前提としています。心が無意識にそのように感じてしまうということです。
この方法は、言い聞かせて自分を変える必要性があることを前提としたものではありません。自らの「本質」は隠れているだけであり、変わる必要のないものだからです。
【意識を置く】とは
ではどのように意識するのかと言えば、元々、自分の内にあるものを確認した。
この表現が一番近いと感じます。
僅かなニュアンスの差なのですが、心が受ける効果というのはだいぶ違うように感じます。
効果を落とす隙を与えないことは、心の技術として重要なことです。
症状で苦しいとき、自分という存在の「本質」を自分に言い聞かせるのではありません。元々、自分の内にある「本質」を確認したことを意識するということです。イメージしたり、言い聞かせたりせずとも、常に元々そうなのだという意識です。
このことが、自分という存在の「本質」に対する強固な認識につながります。
「善」と「愛」
先に自分という存在の「本質」として、3つのポイントをお話ししてきました。
症状などの影響を受けない心にするうえで、特に意識していたポイントであることをお話ししました。
心を揺らがなくするという点では、上記の3つで十分だと思います。
ここではこれに付け加える形で、心の状態や症状の改善に効果があったと感じる2つのポイントをお話ししたいと思います。
よろしければ参考にしてみてください。
【善の存在】
自らの「本質」は、本来、善であると認識する。
心に否定的な想念、感情などがあっても、自分という存在の「本質」が善であることに変わりない。それらは自分という存在の性質に由来するものではない。
心に否定的な想念、感情ばかりが満たされていると、そうしたものを生む自分そのものが否定的な存在なのではないかと錯覚することがあります。
この自分という存在の「本質」が善であるという認識を得たことは、管理人が病気を克服するきっかけとなったのですが(→詳しくはうつ病、パニック障害を克服するきっかけとなったエピソード参照)、簡単にお話しすれば、以下のようなものです。
管理人が病気だったとき、たまたま路上生活者に弁当を配布するボランティア活動に参加する機会がありました。このとき、活動に参加できたのである程度回復していたと思うのですが、心や体にはひどくだるく重い感覚があり、状態はまだ良いとは言えないものでした。
そしてこの活動をしたとき、すぐに自覚できるほど心や体のだるく重い感覚が無くなりました。このとき、この体感の変化こそが、自分という存在の「本質」を示しているのだと感じました。振り返ってこの時を境にして、病気が改善に向かっていったと思います。
人間の本質が善であるという考えは、書籍などで知識として知っていましたが、自らの体感によって認識が大きく変わったということです。
そして、自分という存在の「本質」が善という認識は、自分の存在が否定的なものという認識を根底から覆すものでした。
その後、否定的な想念、感情があったとしても、心がそれによって揺らぐことがなくなりました。
それらは、先ほどの「現象」と「本質」の関係で、自らに纏わりつく一過性のものに過ぎないということです。
【愛の存在】
自らの存在の「本質」は、本来、愛であると認識する。
管理人がこの病気だったとき、殺伐とした環境の中に生きている感覚がありました。視覚的にも世界がどこか暗く生気がないように見えていました。
そして、他人から受ける善意に対しても、自分の内にある善意の感情に対しても、その感受性を失っている状態でした。善意があってもキャッチすることができず、自分の中に入って来ないのです。心は不安や恐怖などの否定的な感情で満たされていました。
この愛という言葉が持つ力は、温かさと明るさだと感じます。
病気の症状によって体は緊張して冷えた状態だったのですが、この愛を自分のものとして思い浮かべたとき、胸のあたりに温かな感覚が生じました。それとともに、どことなく体の緊張が緩み、不安感や恐怖感を減らし、心に温かさを感じさせてくれました。
このときに、愛の威力はすごいものだと感じました。
そして、自分は愛という言葉がもたらす感受性を失っている、ということに初めて気がつきました。自分の世界から、その存在が抜けてしまっているという感覚です。心にあったのは、その対極である怒り、憎悪などの感情でした。それが心と体を緊張させているということに気が付きました。
それ以降、自分という存在の「本質」には愛があり、また、自分の周囲の世界を見るときにも愛を意識するようになりました。
そのことが自分の心と体の状態と、世界の見え方の改善に大きな効果があったものと感じています。(この点に関する体験は、愛を意識することによる気の流れの変化についての記事にまとめています。)
この方法を通じて思うこと
方法の説明は以上になります。
それでは、この方法でなぜ病気を克服することができたのでしょうか。克服した現在になって思うことを、簡単に紹介しておきたいと思います。
「意識の方向」の変化
この方法を行うようになる前は、心と体の症状や、パニック障害の発作が起きるのではという恐怖に対して、自分は大丈夫と言い聞かせる心の作業をしていました。
このとき、自分は大丈夫と言いながら、意識はそれら症状に対して向いてしまうことがありました。大丈夫と言いながら症状を否定するという心の作業が、逆にそれらの存在を余計に際立たせてしまうということです。また、収まらない場合には、自分に重大な影響を与える存在と見てしまっていたように思います。
自分の「本質」に意識を置く方法は、それまでの意識の方向を変えて、揺らがない自分の「本質」に意識を向けるものです。そして、症状などの「現象」があったとしても、自分に根本的な影響を与えないということは、安心感を与えてくれたと思います。
症状が意識に顕在化する機会が減り、希薄化していったということはあるのではないかと思っています。
「自己認識のあり方」の変化
この方法は、それまでの自己認識のあり方を大きく変えるものでした。以前の自己認識のあり方は、端的に言えば「相対的」なものでした。
「相対的」とはつまり、他者との関係によって自分がどのような人間であるかを認識していました。これは社会一般的な自己認識のあり方で、この方法を行うことによって、この相対的な自己認識が無くなったわけではありません。しかしその根底に、自分という存在の「本質」を意識することによって、相対的な自己認識がもたらす心の揺らぎが大きく減ったと言えます。
この病気になる以前より、管理人には他者の視線を気にする、他者と一緒にいると落ち着かず緊張するという傾向がありました。病気だったのときは、特にこの傾向が特に強かったように思います。それは傍目にも明らかだったようで、何故視線を気にするのかと指摘されたこともありました。
このとき、自分が何者なのかということは、他者、あるいは社会からどのように自分が認識されているのかということとほぼ同義でした。
そしてこれは、自分という存在の基準が、他者にあることになります。他者からの認識は当然、流動的に変化するものであり、自分という存在が変化に晒された不安定な状態になります。
自分という存在が大きな影響を受けるとなれば、心の振幅も大きくなります。このため、他者の視線は、自分に大きな影響を与える存在と見なしていたように思います。
自分という存在の「本質」を認識するという方法は、この自己認識のあり方を大きく変えました。むろん相対的な自己認識はあるのですが、その比重が大きく下がったと言えます。また、他者の毀誉褒貶などは一過性のものであり、一種の「現象」と認識するようになりました。
自分という存在の「本質」に意識を置く自己認識のあり方は、自分という存在が根本として影響を受けるものでないという認識をもたらし、それによって心が揺らがなくなったと感じています。
なお、先ほどの他者の視線を気にする、他者と一緒にいると緊張するという傾向は、この病気を克服したときに併せて無くなり、現在に至るまでまったく残っていません。それはこの方法によるものと確信しています。
(この体験については、HSPの傾向の克服に役立った方法についての記事にまとめています。)
「人間観」の変化
先ほどの自己認識のあり方が、自分の心に影響を及ぼすということはわかりやすいと思います。しかし、この人間観というのもまた、心に大きく影響を及ぼしていたように思います。
自分という存在の「本質」に意識を置くという方法は、人間という存在に対する認識、人間観にも大きな変化をもたらしました。
自分という存在は当然、人間という存在です。その人間がどのような存在かということは、自分という存在の前提条件として、心にも暗黙に影響をしているということです。
世間一般の人間観として、人間とは脆く弱い存在である、相反する感情をもった矛盾した存在である、といったものがあります。そしてまた、そのような存在として積極的に認めていこうというものです。
病気になるまでは、上記のような人間観には違和感を持っていませんでした。こうした人間観をモチーフとした文芸や学術などは巷間でよく目にするところです。病気のときには、自分の状態を省みて、上記のような人間観に共感したことがありました。
しかしそれは、共感を通り越して没入に近いものがありました。
自分の病気の現状を積極的に認めることにつながってしまい、その前提条件から抜けられなくなるのです。
自分という存在の「本質」に対する認識は、その囚われから大きく抜け出すことにつながりました。そしてこの「本質」は、人間という存在にも当てはまり、人間観が大きく変わったということがあります。
脆く変化する、相反する感情などは「現象」であり、自分という存在の「本質」に意識を置くことが、揺らぐことのない心につながったと感じています。
否定的暗示を受けない
暗示という言葉が突然に出たので、驚かれた方もいるかもしれません。ここで言う暗示とは、以下のようなものです。管理人の一つの体験を例に、お話しさせていただきます。
管理人は病気だったときに一時、心理カウンセリングを利用したことがありました。このときカウンセラーに対して、自分の心の状態をお話しすることになります。
当初は自分の状態を理解してもらえて良かったと感じていたのですが、ある時から苦痛を感じるようになりました。
カウンセリングでお話しする自分の状態というのは、そのほとんどが良い状態のことではありません。その自分が話している内容によって、暗に囚われてしまっているからだ、ということに気がつきました。
例えば、「自分は暗い心の人間だ」と言っている人間が、明るい心にはなりません。一時、何か良いことがあって明るい気分になったとしても、自分が先のように自認している限り、また元の心の状態に戻ってしまうのではないでしょうか。
これは自分が話者の場合に限らず、他者から「顔色が悪いように見える」と言われた場合にも、やはり自分は具合が悪いのだろうと思い、そのように自認する影響があったりします。不調を感じていた場合には、尚更に具合が悪いことを肯定し影響を受けたりします。
このような何気ない会話の中にも、意図せずに、自分の状態を否定的に暗に決めてしまう作用があります。このことを、ここでは「否定的暗示」と呼んでいます。
普段から否定的暗示をもたらす言葉を使わず、肯定的な言葉を使うよう推奨する方もおられます。それも良い方法だと思います。また、否定的暗示という作用を自覚することで、意識してその影響を軽減できるということもあります。
自分という存在の「本質」に意識を置くという方法では、根本的にこの否定的暗示を受けなくなります。自分という存在の「本質」が、完全であって変化しないものと認識することで、否定的暗示を持つ言葉などの「現象」から自分の存在が影響を受けなくなるのです。
日常の様々な場面で発生する否定的暗示を一括してキャンセルする方法であり、影響を受けない状態となったことも、この病気の克服につながったのだろうと思っています。
(管理人の心理カウンセリングの体験の詳細については、うつ病、パニック障害を克服するまでの途Ⅱ-通院、カウンセリングと投薬治療ーの記事でお話ししています。)
以上が、なぜこの方法が有効だったのか、思うところをまとめたものです。自己認識のあり方や人間観については、病気にかかる前と後で大きく変わったと実感している部分です。参考にしていただければ幸いです。
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心の囚われをなくす方法
ここまで自分という存在の「本質」に意識を置くことで、心を揺らがなくする方法についてお話ししてきました。
この方法の紹介がこの記事のメインなのですが、以下に補足として、別の切り口からのお話しをしてみたいと思います。それは自分を取り巻く環境に対する認識に関するものです。こちらも、心の負担を軽減する技術としてお話しします。
どのような切り口なのかと言えば、先にもお話しした「現象」についてです。
以前、自分という存在の「本質」は、病気などの「現象」に影響を受けることはないというお話しをしました。このときの「現象」とは、自分を取り巻いて立ち現われ、消えていくものという意味で用いてきました。自分という存在の確固たる「本質」とは対となるものです。
自分を取り巻く環境を「現象」として認識することは、心の囚われをなくすことに大きく役に立ちました。
管理人が病気だったとき、自分が周囲の存在に圧迫を受けているように感じる、ということがありました。先にお話しした他者と一緒にいると緊張する、ということもその一例です。あるいは、嫌な出来事の記憶などが繰り返し、自分の心を圧迫するという現象もありました。さらには、相対的な自己認識であったり、社会一般の価値観に圧迫を感じるということもあるかもしれません。
これらの圧迫感から心を解放したのが、「現象」という認識でした。これらは立ち現われては消えていく「現象」に過ぎません。しかし、日常生活の中に埋没していれば、このことを忘れてしまいがちです。
自分の目の前の状況が永続する壁のような存在のように思えたりもします。
そのときに「現象」と認識することで受ける感覚が変わり、心の圧迫感が軽減され、囚われがなくなるということです。
同時に、これは自分自身の意思や感情を取り戻すことでもあります。圧迫感から周囲に意識が向いてしまうことで、自分自身の意思や感情が埋没し、自分でもわからなくなったりすることがあります。そのような状態から取り戻す効果があるということです。
なお、すべてが立ち現われては消えていくいう認識のあり方は、虚無感につながるのではという疑念を持たれる方があるかもしれません。実は管理人は病気だったときに、まだ記事の方法を知る前のことですが、この感覚に囚われたこともありました。
しかし繰り返しますが、「現象」という認識は、自分の心を解放するとともに、自分自身の自在な意思と感情を取り戻す積極的な方法であることを付言しておきたいと思います。
そして、自分という存在の確固たる「本質」に意識を置く心を揺らがなくする方法に加えて、自分を取り巻く環境を「現象」と認識することが、心を解放し、より揺らがない心にする方法であることを最後に述べさせていただきます。
記事のまとめ
今回の記事は以上になります。ご覧いただき、ありがとうございました。
紹介した方法が、皆さんの負担軽減となれば幸いです。
今回の記事の内容を簡単におさらいすると、以下のようになります。
・うつ病、パニック障害の克服には、揺らぐことのない心の土台をつくることが最も重要だと考えている。呼吸法その他の技術的な方法を行っても、心のあり方によっては症状に大きく振り回されたり、病気の状態に戻ろうとし、効果が減ってしまうためである。
・揺らがない心にするために、自分の内にある「本質」に意識を置くという方法である。また、病気の症状は「現象」であり、「本質」にまったく影響を与えるものではない。
・特に、完全であって欠落せず(完全な存在)、傷ついたり壊れたりせず(不変不壊な存在)、汚れることなく清浄である(症状な存在)という3つを自分の内なる「本質」として認識し、意識を置くようにする。さらには、善の存在であり、愛の存在であると認識することも、心と体の状態に改善の効果をもたらした。
・「意識を置く」ということは、「元々、自分の内にあるものを確認した」ということが近く、想念でイメージしたり、自分に言い聞かせたりする心の作為とは異なるものである。これにより、暗に虚偽性などの影響を受けないようにする。
・自分という存在が、病気の症状などに影響を受けないことは、次のように例えられる。金の玉が泥に覆われた場合、泥の玉に見える。しかし、泥の玉に変化したわけでなく、表面に貼りついた泥を落とせば金の玉に戻る。この認識であれば、心が揺らぐことはない。一方、泥の玉に変化したと認識すれば、心は大きく振幅し、泥は落ちるものという認識もなく、その状態を前提とするようになる。
・この方法を行うようになったことで、症状に向かっていた意識の方向が変わり、その存在が顕在化しなくなった。また、揺らぎやすい相対的な自己認識や否定的な人間観から、さらには日常の否定的暗示から心が影響を受けなくなったことが、克服に大きく寄与したと考えている。
・「現象」とは立ち現われては消えていくものであり、自分を取り巻く環境をこのように認識することは、圧迫感を減らし心を解放した。さらには、自分自身の意思や感情を取り戻すことにつながった。
次回は、今回の内容とは大きく変わって、体を使った方法のお話しになります。管理人が体験し修得した内容を、ご覧いただいた方にも行えるように整理してお話しします。こちらもご参考いただければ幸いです。(→次の記事)
ご覧いただき、ありがとうございました。