ソシュールの言語哲学を知ったら世界の見方が変わった
今回の記事は、これまでの記事とは異なって西洋哲学に関するものです。病気だったときに知って、世界観が変わった本についてお話ししたいと思います。
自分が認識している世界から受ける印象が変わり、それが病気の克服に一役買ったということなのですが、どのような変わり方だったのか。言語哲学なんて、病気との関係はなさそうに思うかも入れませんが、以下のお話しにお付き合いいただければと思います。
少し専門的な用語になりますが、「言語論的転回」という言葉があります。これは「コペルニクス的転回」という言葉に准えて使われる言葉なのですが、コペルニクスはご存じでしょうか。例の地動説を唱えた中世の天文学者です。
それまでは天動説、星空が動いているのは天が動いているからという常識とはまったく逆の、自分達が立っている地球そのものが動いているからだ、と唱えた人です。それまでの世界の見方とは、180°変わった、つまり転回したということで、これを「コペルニクス的転回」というそうです。
それでは、先ほどの「言語論的転回」とはどういうことなのか。それは「言語」を介して、やはり世界の見方が180°変わった、転回したというお話しになります。
この場合の転回とはどうものなのか。一言でいえば、対象物を認識して、それを表示するための道具として「言葉」があるとするのが一般的だと思うのですが、そうではなく、人間は「言葉」を通して世界を認識している、というものです。人間が認識している世界とは、「言葉」を通したものなのだ、と。
これは私が大学生だったとき、病気の中で知ったF・ソシュール(1857-1913)というフランスの言語哲学者のもので、その主著『一般言語学講義』(もちろん訳本ですが)を読んで知りました。なお、私は仏文や哲学の専攻ではなかったのですが、このような思想にまつわる本を読みのが好きでした。
「言葉」を通して世界を認識している、ということについて、面白い話を記憶しています。虹は果たして何色に見えるか? というものです。
私達は普通、虹は七色だと言います。(もちろん、もっと細分化しようとすれば、例えば山吹色とか、藤色とか、分けて認識することもできるかもしれませんが。)一方で、現代はグローバル化で我々の世界と全く離れた人達という存在はないのかもしれませんが、それ以前には、虹は三色だという人達もいたそうです。
この場合、これらの人達は、虹を見たとき、三色以外に色を分けて認識していないということです。当てはまる「言葉」も、三色以外にないということです。
いま「分けて認識していない」と言いました。そのとおり、「言葉」というものは、例えば、先ほどの色にしても、違いを認識するので別の「言葉」が存在し、その言葉を通してその色を認識しているのです。
そしてこのとき、表示する「言葉」と、表示される対象物は一体のもので不可分の存在です。逆に言えば、表示する「言葉」がなければ、表示される対象物は世界の構成物として認識されないということです。
この言語哲学を知ったとき、私の心はどこか安心感を得たことを憶えています。誤解を恐れずに言えば、私が認識している世界というのは、「言葉」という細分化された網の目の人為的なレンズを通して認識した世界であり、ある程度の歪みを持ったものだということです。そして、事物というものはそれ単体であるのではなく、「言葉」と一体の存在によるものに過ぎない。
このソシュールの言語哲学は、人間や文化がどのように世界を構築しているか、構造としてとらえる「構造主義」と呼ばれる思想潮流につながっていきました。私が得たところの先ほどの感慨は、このような構造を分析するためのツールという方向とは異なって、人間の認識は限られているというやや仏教的な捉え方なのかな?と自分も感じていますが、ご覧になった皆さんはいかがだったでしょうか。
なおこの仏教的な捉え方という点について補足すれば、やはり病気だったときに読んだものに鈴木大拙(1870-1966)の『仏教の大意』(だったと思う)があります。禅の思想を西洋に広く紹介したことで知られる同氏ですが、この著書の中で禅の思想とは、「相対的」に成り立っている我々の認識する世界を乗り越えることだと言っています。
この「相対的」というのは、言い換えれば細分化された「関係性」であって、我々は日常の世界の物事を単体では認識しえず、相対する関係性によって認識しているというものです。ソシュールの言語哲学とは思想の背景など全く異なる文脈にあるものですが、当時はどこか親和性があるように感じたものです。
最後の仏教的な捉え方まで踏み込む必要はなくとも、ソシュールの言語哲学に触れて、この自分の認識する世界の「言葉」による「恣意性」ということに目を向けたときどこか心に安心感を生じた、というお話しでした。皆さんの何かのご参考になるところがあれば、幸いに思っています。