会食恐怖症を克服した方法について
《会食恐怖症》という言葉を、最近になって聞くことがあります。文字どおり、他人と一緒に食事ができなくなるというものです。
私はうつ病、パニック障害になる以前から、この症状に長い間、苦しんだことがありました。そして、うつ病などを克服したときにこの症状もなくなり、以後、現在に至るまでありません。
今回はこの《会食恐怖症》に焦点を当てて、どのような方法で脱することができたのか、以下、お話ししてみたいと思います。
具体的にどのような状態だったのか
《会食恐怖症》とは、具体的にどのようなものなのでしょうか。
大学生だったときの話ですが、学生食堂で友人と一緒に昼食を摂ろうとします。いつもその途端、非常に緊張して吐き気が生じ、食事が喉を通らなくなるのです。
これは突然に陥ったというものではなく、以下のような前兆がありました。
幼少時より転居することが多かったのですが、新しい環境になる度に、胃部が痛くなったり食欲が減退したりしました。学校の給食でも食事が喉を通らなくなったのですが、周囲から奇異の目で見られないよう、無理して食べていました。
奇異の目で見られないよう、というのは、食事を残さないという教育があり(もちろん理解できるのですが)、体調が優れない場合でも食事を残しづらく感じ、残す場合には都度、教師の了解を求める学校もありました。
自宅ではこれらのプレッシャーもないので精神的に楽なのですが、学校の給食の時間には、非常に苦痛を感じるようになりました。時間の経過とともに環境に馴れてくれば、症状も緩和されて普通に食事できるようになるのですが、転居したら症状が戻る、ということを繰り返していました。
高校生活の後半に差しかかった頃から、慢性的に学校での昼食では吐き気を感じ、握飯を1個か2個のみ食べるという状態が続くようになりました。この状態は大学への進学後も変わらず、毎日、学生食堂で少量の麺類を食べるという生活が続きました。
麺類は量が少なく、また汁気で喉に流し込むための選択だったのですが、極度の緊張と吐き気から一口、二口ほどしか食べられないこともあり、友人が一緒でない場合でも、他人の目がある外食時には同じような状態になっていました。
食事が喉を通りにくいため細々と食べる様子となり、友人などに奇異の目で見られないか、あるいは周囲は楽しく歓談しながら食事する中で、自分は吐き気に悩まされながら完食できるか心配し、周囲の場の空気を壊しているのではないか、食事を残せば店に対しても失礼になるだろう、といった否定的な想念や不安感に悩まされもしました。
そしてこの頃には冒頭でお話ししたように、非常に緊張して吐き気が生じ、食事がまったく喉を通らず、まさに会食が恐怖であり苦痛であるという状態でした。
さらに駄目押しで、学生食堂や外食店といった「場所」にも入れなくなりました。入ろうとしたり、近づいたりするだけで体は冷えて脱力したように感じ、吐き気が生じたためです。
苦痛ならば食べなければよい、ということで昼食を食べずに過ごすこともありました。しかし空腹感が無くなるわけではありませんし、立ち眩みも度々、起こすようになっていました。自宅で独り食事することは問題がないので、授業を早々に切り上げて帰宅することもありました。
この状態は心理面にも悪影響があって、食事という日常の行為ができない自分は、今後、まともな社会生活が送れないと不安を感じるようになりました。事実、友人との行動にも支障をきたし、異性との食事もできず、自信を喪失する状態でした。
病院には行かなかったのだろうか、と疑問に思われた方もあるかもしれません。
幼少時から食欲の減退で内科を受診することはあったですが、検査しても異常は見つかりません。消化を促す薬が処方されるのですが、さほど効果はありませんでした。大学生のときにうつ病などの診断を受けたことから、精神薬の投薬によって友人と一緒に少量の麺類が食べられる程度には回復しましたが、苦痛があることには変わらず、薬の量が増えても大きな改善はありませんでした。
少し長くなりましたが、以上が、当時の具体的な症状です。
幼少時からの前兆を含めれば、長い期間続いたことになります。一種の体質であって、今後も良くならないだろうと諦めたこともありました。
しかし先にお話ししましたが、うつ病などの克服と同時にこの症状は解消してしまい、以後、まったくありません。それがどのような経緯と方法であったのか、次にお話ししてみようと思います。
どのような経緯と方法で解消できたのか
投薬治療でもなかなか改善しなかった《会食恐怖症》ですが、ある体験をきっかけとして快方に向かいました。そのきっかけとなった体験とは、気功の体験です。(気功体験の詳細は、別の記事(→記事)にまとめています。興味のある方はご覧ください。)
うつ病などの投薬治療の影響が重く、他の方法もということで偶々出会ったのが気功でした。しばらく続けた頃に、以下の出来事が転機となって快方に向かっていることを実感しました。
気功教室で練功した後、外食店に入る機会がありました。気功をしばらく続けた頃から、徐々にリハビリを兼ねて知人と外食店に入るようにしていたのですが、この時もやや緊張は感じたものの、入ることができました。
これまで外食店に入るときには脱力や冷え、吐き気などを感じ、それが心や体の癖、一種の条件反射になっていましたが、このときには出ませんでした。
理由として考えられることは、気功を練功した後は、体全体に温かな気が流れる状態となり、余計な力が抜けて、リラックスした状態が保たれるということがあります。先ほどの脱力や冷え、吐き気を感じたりするときは、反対に体の気が停滞して流れにくく(気功をするようになってそれを実感しました)、練功後は気が流れる状態が強く保たれるため、これらの反応は出にくかったものと思います。
このほか、気功の効果として、緊張をもたらす胸式呼吸ではなく、リラックスした自然な腹式呼吸となるため、胃腸の動きが活発になっていることが自分でもわかります。このため、ごく自然に空腹感を覚えやすくなり、このときも食欲を感じたので定食を注文しました。
これまで、外食店では緊張と吐き気によって一口、二口しか食べられなかったことをお話ししましたが、やはり体の反応はなく、それなりの量もある定食を完食することができました。
普通の人にとっては当たり前のことなのですが、これまでの経緯から自分には衝撃の体験であり、この日の出来事は、かなり年数が経った現在でもよく覚えています。
この出来事の後も、練功して気が流れてリラックスした状態で食事をするという成功体験を繰り返していくことで、先ほどの心と体の癖、条件反射も解除されていき、普段の会食も問題なく行えるようになっていきました。
また、この心と体の癖、条件反射がどのようなものなのか、気功の体験を通じて、自分なりに理解したことも解消に役立ちました。その内容の詳細については、メイン記事「気を下げて丹田に入れることで症状を落ち着かせる方法」(→記事)でお話ししていますが、簡単に言えば、これらが起こるときには、体の気が頭の方へ上がった状態になっているということです。
体の気が上がっているとき、呼吸は胸式呼吸となり、体は緊張したり、あるいは気が頭に上がってしまうことで体に気が流れずに脱力したり、冷えたように感じたりします。逆に、リラックスして気が流れているときには、気は丹田(下腹部分)に下りた状態になっています。このように、どのような状態にすれば症状が出ず、気が流れやすい状態となるか体で分かるようになったことも、解消につながりました。
現在は気功をせずとも病気の状態に戻ることはまったくありませんが、それは上記の理解があることも背景にあります。また、気功以外にも、気を下げる方法として、自分なりの呼吸法を修得したということもあります。(呼吸法についても別に記事(→記事)にまとめていますので、興味のある方はご覧いただければ幸いです。)
食欲不振などに陥りやすいのは生まれながらの体質のようなものであり、癒ることはないと思っていましたが、上記の経緯によって解消することができたことは、自分にとっても驚きでした。さらに、うつ病、パニック障害の克服と合わせて解消されたことも、背景には体の「気が上がる」という同じ原理があって、同じ対処方法が有効だったということもあります。
なお最後に、先の症状の経緯で、外食時に周囲から奇異の目で見られたら等々、様々な強迫的な思いが交錯したお話ししました。ご覧の方には、これらの思い癖をどのように克服したのか、と疑問に思われる方もおられるかもしれません。
気が頭に上がって頭が過熱状態となれば、様々なことを思い巡りやすくなりますが、気が丹田(下腹部分)に下がれば、心もリラックスし、自然に穏やかな状態になっていきます。また、先ほどお話ししたように、会食できたという成功体験が繰り返されることで、そもそも思い悩む必要が無くなり、これらの思い癖も自然に消滅していきました。
以上がメインの解消方法となりますが、一方では元々、会食時以外にも周囲の目を気にする傾向があり、この頃には、周囲からの影響を受けにくくする心の意識づけの方法も修得していました。それが《会食恐怖症》の解消に寄与した部分もあったかもしれません。この方法については別の記事(→記事)にまとめていますので、必要があればご参照ください。
以上が、私が《会食恐怖症》を解消した経緯と方法になります。
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今回の記事は以上ですが、いかがだったでしょうか。
前兆となる期間を含めれば長い間悩まされた症状でしたが、偶々気功を体験したことから解消につながり、その後も症状が戻ることはなく、日々会食を楽しく行っています。ご覧の皆さんの参考となる部分があったならば、幸いに思います。