ソシュールの言語哲学を知ったら世界観が変わった
言語哲学なんて、病気の克服とは関係なさそうに思うかも入れませんが、興味のある方は以下のお話しにお付き合いいただければと思います。
「言語論的転回」という言葉があります。哲学などに興味のある方はご存じかもしれません。これは「コペルニクス的転回」という言葉になぞらえて使われる言葉です。コペルニクス(1473-1543)は、天動説に対して地動説を唱えた、中世の天文学者です。
時間の経過とともに夜空の星が動くのは、地球の上の天が動いているからという天動説に対して、そうではなく地球そのものが動いているからという地動説は、基盤を180°変える、転回させるものでした。そしてこれによって、天動説という凝り固まった世界の認識を脱することができたとも言えます。
「言語論的転回」とは、「言語」を通じて同じように世界の基盤が転回したということになります。
私は病気だった大学生の時分に現代哲学に少しばかりですが興味があって、フランスの言語哲学者F・ソシュール(1857-1913)の主著『一般言語学講義』(訳本ですが)を読んでみて知りました。
では「言語論的転回」がどのようなものかということですが、それは次のようなものです。
通常「言葉」とは、対象物を認識し、それを指し示すためのラベルのような道具と見なされるのですが、そうではなく、逆に、認識とは「言葉」を通して行われているというものです。もっと踏み込んで言えば、我々が認識している世界とは、「言葉」の世界そのものだということです。
具体的な例を挙げてみます。虹ははたして何色に見えるか? というものです。
私達が日常で虹は何色ですかと問われれば、普通、七色だと答えるでしょう。(もちろんさらに細分化すれば、例えば山吹色とか、藤色などにわけることもできます。)しかし、例えば我々の世界とのアクセスがない環境の人々の中には、虹を三色と認識する人達もいました。虹を三色のほかに分ける言葉がなく、別の色として認識できていないということです。
「別のもの」と認識するためには、別の「言葉」が存在し、その「言葉」を通して対象物を認識しています。このため「言葉」と「対象物」とは表裏一体の不可分の存在になります。逆に言えば、認識された「対象物」というのは、「言葉」を通してなされたものだということです。
さて、ここまで長く抽象的な話が続いて恐縮です。私は病気を克服する過程でこの本を読みましたが、この言語哲学を知ったとき、何かしらの安心感を得たことを覚えています。
誤解を恐れずに言ってしまえば、私が認識している世界は、人為的な「言葉」というレンズを通して認識した世界であって、ある種の《歪み》を持っているということです。私が認識している世界などというものは、もともとそのようなものなのだ、という感慨です。
しかし私の先ほどの感慨というのは、このように構造として分析するツールという方向とは異なって、人間の認識というものは「言葉」によって制限させられているのだ、というもので、やや仏教的な捉え方なのかな?と自分も感じていますが、ご覧になった皆さんはいかがだったでしょうか。
なおこの仏教的な捉え方という点を補足すれば、やはり病気だったときに読んだものに鈴木大拙(1870-1966)の『仏教の大意』(だったと思う)という本があります。禅の思想を西洋に広く紹介したことで知られる同氏ですが、この著書の中で禅の思想とは、「相対的」に成り立っている我々の認識世界を乗り越えることだと言っています。
この「相対的」というのは、例えば、「善/悪」の概念といったように相対する関係のことで、物事は単体では存在しえず「言葉」による関係性によって存在し、我々はそれを通して世界を認識し、また逆にそれによって縛られているというものです。ソシュールの言語哲学とは思想背景など全く異なる文脈にあるものですが、どこか親和性があるように感じたものです。
最後の仏教的な捉え方まで踏み込む必要はなくとも、ソシュールの言語哲学に触れて、この自分の認識する世界は「言葉」の世界だということに目を向けたとき、心のどこかに安心感を生じた、というお話しでした。皆さんの何かのご参考になるところがあれば、幸いに思っています。